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岡谷蚕糸博物館
岡谷美術考古館
394-0028
長野県岡谷市本町4-1-39
開館時間 AM9:00〜PM5:00
休 館 日 月・祝翌日、
      年末年始
TEL&FAX
0266-22-5854

 
岡谷の製糸業史概説
蚕糸ってなに??
蚕は卵→幼虫→蛹→成虫(蛾)と4回姿を変えて成長する昆虫です。幼虫時代が蚕で、蛹になる時に繭を作ります。蛾から卵を採取する蚕種業と、蚕が繭になるまで飼育する養蚕業と、繭から生糸を製造する製糸業の三つをまとめて蚕糸業といいます。生糸は、明治から大正、昭和の初めにかけて日本の貿易輸出の中心を占め、最盛期には、6割を占めるほどでした。日本の近代化を支えたのが蚕糸業だったのです。

明治以前の生糸づくり
奥州糸とる図
1765年、岡谷の小坂村で小坂桑が発見され、土地柄にあった桑の栽培が始まると、冬が長く、寒さが厳しい諏訪地方では、農業の副業として、蚕飼い・生糸づくりが盛んに行われるようになります。この頃、生糸づくりは胴繰りや牛首などを使った手挽きという方法での生糸づくりが行われていましたが、この生糸が近江の商人の注目されるところなり、生糸づくりは問屋制家内工業へと発展し、機織りの盛んな京都方面へ出荷されるようになりました。

近代蚕糸業の息吹き−洋式器械の導入
1859年に横浜が開港され、外国との貿易が始まると、日本の生糸は輸出品の花形として注目されます。広がりと高まりをみせる生糸市場の中で、能率本位で低品質の糸が出荷されることが多くなったので、諸外国から悪評を招き、生糸製造技術の改善が求められるようになりました。明治政府が誕生すると、蚕糸業が近代化を推し進める殖産興業ととらえられ、イタリアやフランスなど製糸先進国の洋式技術を導入し、生産能率の向上を図る試みがみられるようになります。官営富岡製糸場では、フランス人技師のブリューナーのもと建設が進み、フランス式繰糸機が導入されました。
上州富岡製糸場之図

「糸都岡谷」への発展−諏訪式繰糸機・諏訪式繰糸法
明治に入ると岡谷でも新しい生糸づくりを志す多くの製糸家が登場します。明治8年、武居代次郎らは中山社を創業し、イタリアやフランスの先進的な特徴を取り入れながらも、機械のほとんどを木製にし、鍋を陶器にするなど実用化した独自の繰糸機械、諏訪式繰糸機を開発しました。当時、イタリアやフランス式の機械は設置に多額の資本が必要でしたが、諏訪式繰糸機は小野組の東京築地工場や官営の富岡製糸場に比べ一段と安価で機械の設置を可能とさせるものでした。
また糸歩や能率をともによくする諏訪式繰糸法という生糸づくりの方法も生み出されて、生糸の工場生産体制が整えられていきます。岡谷が生糸王国へと発展を遂げる礎が形成されたのです。
富岡製糸場(300人繰り)
深山田製糸場(60釜相当)
中野町製糸場(32釜)相当
松代六工社(50人繰り)
■中山社(96釜相当)
長野県製糸場(50人繰り)
参考値(100人繰り)
武居代次郎
明治初年の製糸工場建設費における1釜あたりの金額
(岡谷蚕糸博物館紀要2号より)

「糸都岡谷」への発展−製糸結社・信州上一番
明治初年は、蚕種や蚕の飼い方がまちまちであるために原料繭が不統一で、生糸の糸質にバラつきがありました。また製糸工場も小規模であったので、生糸の生産量も少なかったために、出荷時に生糸が足りないという現象がおきていました。そこで、小規模な製糸家が単独で、横浜などに生糸を出荷するのではなく、いくつかの製糸家が集まり、自分の工場で生産した生糸を一箇所に集め生糸の品質を統一し、大量に出荷することが多くなりました。このような集まりを製糸結社といいます。岡谷の製糸結社は互いに結びつきを深め、製糸家はそれぞれ力をつけていきました。しっかりと品質が統一された岡谷の生糸は、市場から大きな信頼を得ることとなり、信州上一番格生糸は輸出生糸の主流を占める銘柄となっていくのでした。
片倉兼太郎
昭和元年における全国の繰糸器械のうち信州式(諏訪式)の割合(釜数) (日本蚕糸業史第2巻より)

世界にその名がとどろいた「糸都岡谷」
製糸全盛の頃の岡谷
明治42年には、日本は中国を追い抜き、世界一の生糸生産国となり、生糸は輸出の50%ほど占めるに至ります。それを支えたのが岡谷でした。製糸結社から独立し、県外に進出にして経営を拡大する製糸家が続々と登場し、岡谷の製糸は全盛を迎え、世界一の生糸輸出国の中枢的役割を担ったのです。
西
片倉組
横綱
小口組
大関
山十組
碓氷社
関脇
依田社
岡谷製糸
小結
俊明社
甘榮社
前頭
林組
尾澤組
前頭
丸一組
原製糸部
前頭
東行組
日本社
前頭
交水社
郡是製糸
前頭
矢島組
信勝社
前頭
富國館
信英社
前頭
廣盛館
・・・つづく
前頭
・・・つづく
赤字が岡谷を拠点とする製糸工
一年間横浜生糸入荷個数相撲番付(明治44年6月〜明治45年6月)
全国にあった約3000の製糸工場のうち上位を岡谷が独占した。
製糸業の発展は、岡谷のまちの発展にも大きな影響を与えました。鉄道の開通や、交通、郵便、電信・電話の整備、電気の普及、病院の設置、教育など、岡谷の人々のくらしにも大きな貢献を果たしました。現在は、全盛を極めた岡谷の製糸も当時の面影を伝える街なみも少なくなりましたが、日本の近代化を支えたという岡谷製糸業の誇りが今も受け継がれてきています。
現在の岡谷
 
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